2024年6月8・9日 聖霊降臨後第3主日(緑)
(マルコ3章 20-節)
私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。アーメン
「どこにいるのか。」(創3:9)。この神様の呼びかけを、みなさまは、どのように感じますか? 第一の日課、創世記3章。天地創造の時には、人間には、身体も魂も休まる場所が与えられていたことが記されています。エデンの園の物語です。しかし、人は、神様との約束を破ってしまいました。食べてはならないと言われた果実を、手にとって食べたのです。自らの存在を知り、故に身を隠す人間。その人間に神様は呼びかけます、「どこにいるのか」。
福音書の時代、イエス様がなされた問いかけも、人々にとっては厳しいメッセージだったことでしょう。悔い改めよ、神の国は近づいた。生きる道を方向転換するなどとは、簡単にできることではありません。特に、自分は正しいと思って生きる人間にとっては、決して受け入れられない主張です。自らのダメなところを隠して、必死に生きるのが私たち人間だから。イエス様のメッセージは、特に、社会の支配者層にとって耳が痛いものになりました。
この世の支配に従えというイエス様への批判は、身内の人々さえ不安を引き起こしました。そして律法学者たちは、イエス様が悪霊の親玉「ベルゼブル」に取り憑かれていると主張しました。俺たちの正義を認めず、社会のルールを破る悪い奴、だから、悪の力を用いている、というものだったのでしょう。
そんな彼らの主張を、イエス様は、たとえを用いて崩しました。そして言いました。「(しかし、)聖霊を冒瀆する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う」。聖霊を冒涜するとは、神様のみ心を受け入れないことを意味します。
しかし、彼らは大切なことを見落としていました。それは、神の子イエスが、神様の意志に従って、愛のわざを成していたということです。そして、それを受け入れられないのは彼ら自身のほうであったということです。だから、イエス様は彼らを厳しく戒められました。そしてイエス様は、周りに座っている人々に言いました。「「見なさい。ここに私の母、わたしの兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。」」
「どこにいるのか」。この問いは、聖書においては、恐怖以外の意味があります。それは、迷える小羊を探す、愛の神様の呼びかけです。たとえ、罪を抱えて生きていても、この世のルールに縛られて隠れながら生きることを強いられていても、それでもなお、主は、私たちを探し求めてくださる、その問いです。だから、主を受け入れる者にとっては、たとえ罪に生きる者であっても、たとえ他者から居場所を奪われ、悩み、苦しんで生きる者であっても、慰めの問い、生きる希望を与える問いになります。神様は、「どこにいるのか」という問いを通して、魂の安らぎ、真実の癒しへの導きを示されました。イエス様は、神の御心を望んで、聖霊を受けて生きる者こそ神の家族であり、主が共にいると言いました。イエス様は、生きづらさを抱え、身を隠して、心の中の悲鳴を隠して生きるあなたを知っておられ、「どこにいるのか」と呼びかけています。その問いを通して、あなたを招いています。
そして、私たちは、この言葉を携えて、家族に、職場に、地域に送り出されています。当事者にしかわからない痛み、苦しみ、孤独。生きづらさの中にあるその人に、イエス様は、あなたこそ教会に招かれているのだと語りかけています。願わくは、私たちが、神様の器とされ、福音を届ける者とされますように。私たちひとりひとりが、神様につながって、神の家族となりますように。互いの違いを受け入れ、平和に歩むことができますように。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン